マタイを歌うこと
バッハが初演した100年後、メンデルスゾーンがこの作品を発見した時、彼はいったい何を思っただろうか。一瞬のうちに100年の時の差は消えて、メンデルスゾーンが生きる時代にこそ、この作品が生きてることを衝撃をもって知ったのではなかろうか。
それからさらに200年の間、世界中のあちらこちらでマタイは歌い継がれてきた。そして私たちも今、この作品に挑み歌おうとしている。バッハのマタイ受難曲といえば、宗教音楽史上最高峰の作品である。美しい音階とドイツ語の織りなす調べにどこまで近づけるか、課題は山積している。マタイは罪、死、犠牲、救済など、宗教的側面の聖書研究なくしては語れない。非キリスト教徒で異文化にある私たちはマタイを理解することができるのだろうか?という迷いはいつもある。
「どんなにがんばっても文化のちがうマタイには近づけないのではないか?」
しかし私たちのような異文化の者の視点の方が、かえってこの作品がかかえる普遍性に気づけるのではないかと私は思いはじめた。
イエスは、彼を危険視したユダヤ教の人々によって捕えられ反逆者としてローマ総督の裁判を受け十字架にかけられ無抵抗のまま死んだ。イエスの死の意味は何か?
生前のイエスは人々にわかりやすい言葉で教えを語ったにちがいない。しかし、この世に救いがもたらされたのはイエスの生前の活動や教えによってではない。人間の究極的な救いは、イエスが十字架上で死んだことによって与えられたのである。そして一般的に、信じる者は救われるというテーゼを教会はいい続けてきたが、イエスの死後2000年にわたって、戦禍などイエスと同じく理不尽な死に方をした者たちの救いを教会はどう捉えるのか。私はそのことをいつも考えていた。
私は敢えて問いたい。「信じる」ことだけでいいのか?他にすることはないか?
キリスト教徒でないからこそ私はこう言える。キリストの死は「理不尽な死」の象徴ではないか?そう考えることが私たちがマタイを歌う意味と考えられないか?バッハの時代も然り。カトリック対プロテスタント最大の戦争である30年戦争後まもなく生を受け、彼が見た世の中の荒廃ぶりはいかばかりであったろう。バッハ/ピカンダーもまたイエスの生きた時代を振り返り自らの時代の窮状を作品に投影させたのではないだろうか。
2026年2月、戦争レクイエムの本番が終わり、メンデルスゾーン『讃歌』が本番指揮者を迎え、練習が佳境を迎えていた頃、世界ではアメリカとイスラエルがイランの攻撃を開始、それはイラン指導部を全員虐殺するという国際法違反も甚だしい残虐な行為であった。しかし、わが国の首相は、米国大統領とハグし世界平和をアメリカの手に委ねた。その陰で無数の人が殺されていることを見過ごすのだろうか。
決して看過できない現実が今世界中にあることを憂う。このことへの怒り、洞察が作品の理解、表現にリアリティをうむにちがいないと信じる。この作品について、納得のいくまで学び解釈し、誠意をもって一つ一つの言葉と音を表現し初めてイエスの死の意味が表現できるのではないかと思っている。殺害がグローバル化してしまった今、その対局にあるものは芸術と美、そして創造であるという主張が身近な言葉になってきた。