第3章
3.僕の仮説
さて、ここからは僕の仮説です。
アマチュアが『第九』を歌う、という状況が1900年頃のドイツにはあり、その合唱に参加した一般市民の中には、志願兵として第一次世界大戦に従軍した人たちがいたのではないか、そして青島に駐留していたドイツ軍への日本参戦とドイツの敗退の中で、捕虜として坂東へ送られてきたのではないかと、僕は想像します。故郷を思い、二度と戦争を起こすまいと演奏したのが『第九』だったのではないでしょうか。ドイツにいたとき、この作品を演奏または聴く事があったからこそ遥か彼方の異国の地で第九を歌うことに繋がったのだと思います。
この収容所では、2年間で100回の演奏会があったという記録が残っています。戦争の捕虜収容所で、1週間に1回のペースで演奏会があるとは!第二次世界大戦で57万5千人の日本人がシベリアに送られ、5万5千人が現地で死亡したことと比べてみても、考えられないことです。どうしてそのような収容所運営ができたかと言えば、それはひとえに当時の収容所所長の裁量によるものでした。
つづきは 4.坂東収容所所長 松江豊寿(まつえとよひさ)の気概