マーラー『交響曲第8番』について


過去に行われた2016年の『千人の交響曲』 プログラムノートより

インタビュー「合唱指揮者が語る曲づくりの秘密」=マーラー『交響曲第8番』=

(抜粋)

O(聞き手): 合唱団を通じて曲を作っていく現場の立場から曲の ポイント、秘密みたいなものをお聞かせいただけないかと思って お時間をいただきました。まず今回は『千人の交響曲』と呼ばれる マーラーの交響曲第 8 番ですが、先生は山田一雄、シノーポリ、 ベルティーニなど錚々たるマーラー指揮者と演奏されてこられま したが、その中で印象に残っているのはどんなことでしょう

G(郡司): まだマーラーが日本で一般化していないときに自分の 師匠でもある山田一雄が新交響楽団との演奏で日本の先駆的な この曲の演奏を果たしました。あの分からない棒には魔術師的な 良さがありました。練習そのものから興奮して印象的でした。

『千人』の合唱練習

 O:初めてこの曲の楽譜を見たとき、声部もたくさんあり、どのように 練習を進めていこうと思われましたか?

 G:初めてこの曲に取り組んだのは日本フィル創立 20 周年の時で したが、まず最初の印象としては「僕には出来ない、僕が教えて いる合唱団にもできない。しかし頼まれたからにはやらなければ ならない。逃げるわけにはいかない」ということでした。プロの合唱 団では練習時間も人数も必要なので、当時の在京のオケでは依 頼するところがなかったからアマチュアに話がきたのだけれど、ア マチュアの合唱団には出来るとは全く思わなかったですね。でも 一級の人と共演したいという気持ちもあって、『第九』を最初にやっ た時と同じように、やってみようというだけで引き受けたのですが、 確信はありませんでした。途中でやっぱりやめようと思ったことは 一度や二度ではありませんでした。

O:練習が進んでいって何か見えてきたことがありましたか?

G:ありません。何しろ歌えないのだから。何度レコードを聴いても 理解できない。当時我々は現代も近代も聴いていない。せいぜい ブラームス止まりです。できるかどうかわからないけれど、若かっ たしとにかくやってみたいというだけでした。1パート1パートやっ ても全体が見えてこない。しかもさあできたからあわせてやろう、と 思うとまた各パートができなくなってしまう。その繰り返しでした。 オケあわせになってやっとなるほど、という感じでした。その後何 回かやってもしばらくは暗中模索でしたが、シノーポリ/フィルハ ーモニアオーケストラ、ベルティーニ/都響とやったときにはよう やく「ああこれだ!」というのがつかめてきて、その意気込みがエ ネルギーとなりました。

O:今回は最初どういうところから練習をスタートさせましたか?

G: 今回のはそれまでの『千人』と全く状況が違いました。今回の 『千人』はこれまで経験もしてきたこともあって、練習の始まりから 最後がどうなるか見える部分がありました。16声部の混声合唱、児 童合唱、8 人のソリスト、巨大オーケストラ、バンダ(舞台外に配置 された奏者)といった大編成ですが、参加者一人一人が全体を把 握する。その中で自分の役割は何なのか、自分の責任は何なの か、そういった社会の縮図のようなスタイルが大切です。一人で歌 えればよいのではなく、全員が全体を理解しながら自分を深めて いく。そのために何をしなければいけないかというと一人一人がま ず歌えるようになることなのです。歌えるようになるためにどうする かというと、最初は音程も取れなくてよいから階名読みからはじめ るのです。すぐに階名で読めなければ仮名を振ればいい。そうし て練習をしていくうちにだんだん歌えるようになる。そしてこの曲の 場合全体がどう動いているかがわかるのは実は最終段階なのです。 そのとき全体がどう見えてくるかは、それまでに基礎的なことをきち んとやっているかにかかっています。『千人』はオケ合わせになら ないとこの作品の本当の姿は見えてきません。それまで辛抱しな がらどうやって自分の役目を追及するかが大切なのです。そして 本番でお客様が入った時に初めて明確になるのです。そのプロセ スをきっちり踏 んでいく。それ を間違うとこの 曲は人数が多く 音量も大きいだ けにただのお 祭り騒ぎで終わってしまうのです。

O:当たり前かもしれませんが、複雑な曲であるだけにかえって各 人が与えられたパートをいかにきちんと歌えるようにするかが大切 なわけですね。

G:それさえやっておけば合唱とオーケストラが全部一緒になった 時にこの曲の面白さがわかるのです。それはオーケストラも含め た全体の作品の中で自分がやっていることの存在が理解できるの です。

O:マーラーはオーケストラのパートとそれぞれの声部を対等に扱 って書いていますからね。ところで先生は全部の声部の動きをど のようにして一度に聴いているのですか?

G:今回の練習の中でわかったことは、ブレスの位置、言葉の切れ 目、ドイツ語のフレーズ、そういった音楽的なことをちゃんとやって おけば 16 声部あってもそれがきちんと聴こえてくるということです。 それは一度に聴くのではなく、聴こうと思ったパートが聴こえると いうことなのです。それが埋もれて聞き取れないということは主体 性をもってきちんと歌えていないということでしょう。

O: 失礼ながらよくこれだけの声部が全部わかるものだと感心して しまうのですが。

G:たぶんコーラスのことだけでいえば本番の指揮者よりも頭に入 っていると思います。『千人』では本番の指揮者はオケのことで精 いっぱいでしょう。その点この曲は分業制だと思っています。合唱 については任せてください、という感じです。合唱指揮者としては やりがいがあります。そしてそういうことを巨匠と言われる指揮者は わかっています。何カ月も合唱は練習しているのですから、本番 の指揮者がいきなり来てこう変えようと思ってもなかなか直せませ ん。それが出来るのは合唱指揮者だけです。コシュラー(スロヴァ キアの名指揮者、東京都交響楽団の創立 20 周年演奏会で『千人』 を指揮した)の時も大変でした。第2部の最初の部分を直すのに全 体の練習の半分近くの時間を費やし、あとは通しただけでした。

(中略) 

『千人』の難所

 O:この曲は難しいところがあちこちにあるのですが、その中で特 に気をつけている部分はどこになりますか?

G:最後の神秘のコーラスへとつながっていく前のところです。ま ず男声だけではじまり女声が続いて、間奏があって神秘のコーラ スになっていく。その男声合唱の部分から神秘のコーラスが始ま っているのです。

O:練習の中では部分的に練習するケースが多くてわかりにくいと ころですが。

G:全体の流れをつかむのを練習でやりたいけれど、それをする ためにはオケの部分を弾いてくれるピアニストの負担が大変大き い。やはりオケ合わせで集中するしかありません。演奏者が一緒 になったときに短い時間の中でどこまでもっていくかが決め手で す。もっと言うと今回を1回目として近い将来もう一回取り組んでい くことで、どのように完成へと向かっていくかということもあります。 合唱団の中にこの曲を歌った経験がある人が多くいることで雰囲 気を作ることでしょう。 

O:合唱団から見ると難しそうなところはフーガであったり、神秘の コーラスの部分と思いがちですが、その流れなのですね。

G:神秘のコーラスに向かう流れが一番難しいですね。神秘のコー ラスまでどう持っていくかが指揮者の腕でしょうね。人間の魂を天 空すれすれまで持って行って神秘のコーラスにはいり、最後にマ リアと人間の魂が再会する。

O:そこがこの曲の、またゲーテのファウストの本質かもしれません ね。テクニック的には最高度のものを要求されていますが。

G:また第 1 部では伝統的なスタイルでラテン語に即した歌の作り 方、言葉と音楽の融合が大切です。それと最後のグローリアのよう に現代的なエネルギー。マーラーの作品は全世界に呼び掛ける ミサになっていることを理解しなければなりません。その点トーマ ス教会の信者のために作曲したバッハや、ヘンデルなどとは違い ます。

O:アマチュアには大変な要求ですがどうやって解決していけば いいのでしょう。

G:オケもそうですが、個人個人の見せ場、合唱もここのパートが聞 かせどころというのがありますが、それをどう音楽的なバランスの なかでやるかということが難しいですね。合唱でいえばパート間 のバランスが悪いというアマチュア合唱団の宿命があり、それをど うもっていくかです。あまりコントロールしすぎるとコントロールでき ないぐらい悪くなってしまう。音楽が面白くなくなってしまいます。 生き生きしたものを保ちながらバランスよく作っていかなければな りません。例えばエキストラを入れて男声が安定してくると女声も 変化し、女声の変化を聴いて男声も良くなる。オケもそうでしょうね。 お互いにやりとりする。そのためにもそれぞれがきちんとできるよ うにしておき、オケ合わせの時に合唱指揮者としてどうアドバイス できるかが大切ですね。


『千人』をもっと楽しむために 

O:どうすれば合唱団員はこの難曲を楽しめるようになれると思い ますか?

G:半年以上の練習はひたすら修行で、オーケストラと一緒になる 最後の 1 週間だけが楽しみです。歌って楽しくなければやらない と言っていると、それだけではこの作品は歌えません。音程をとる こと、言葉をつけることをきちんとやって、そして最後になって全 体を理解することができれば楽しくなるでしょう。『第九』みたいに 毎年とはいかないけれど、『千人』も経験が必要でしょう。

O:お客様に『千人』のどういうところを聴いてほしいですか?『千 人』を初めて聴く人にはすごい迫力だな、というところから始まりま すが、迫力だけではないと思うのですが。

G:第一部では最初とグローリアを柱としてバランス良くできている 作品です。マーラーはうまく作っているので、ある程度コンサート 経験のある人は面白く聴けると思います。先ほども言った通りバラ ンスが大切で、お客様を満足させようと迫力だけで勝負するとピア ニッシモのところも大きく演奏してしまいます。バランスを考えない と最後に収拾つかなくなってしまいます。私はこの作品はもっと緻 密に作ってあると思います。 『第九』もバッハの『マタイ受難曲』もモーツァルトの『レクイエム』も 皆が最初から全体を理解しているわけではありません。家族や友達が歌っているので初めて聴きにいらした方も、何回か演奏会に 足を運んでいただくうちに、今日のソリストよかったね、2 楽章は活 発でよかったね、と演奏会ごとに変わっていただくことによって演 奏者も成長するのです。

O:そういうことを考えると合唱指揮者にとってこの曲の面白いとこ ろは何でしょう?

G:本番の指揮者との分業の中で合唱指揮者に与えられる割合が 多いということですね。そういう面では『千人』に比べられる曲はあ まりありません。

O:一方で『千人』がマーラーの作品の中で人気がいまひとつなの は実演に接する機会がないということも原因なのでしょうね。

G: 残念ながら世界的にはこれを効果的に演奏できる会場やリハ ーサル会場がなかなかありません。大きなホールなら舞台を作る ことができますが、それを作ってリハーサルをするためには 3 日 間必要になり、それは財政的に無理があります。しかし、今回は 3000 円、4000 円のチケットを売れば東京芸術劇場で『千人』の演 奏会を開催することが不可能ではないということを証明しました。 ホールが会場費を安く提供してくれたりすればもっと楽にでき、何 度も演奏され、聴く人も増えます。いろいろな地域にあるホールが 予算をとって様々な企画を立ててもらいたいですね。今回のよう に助成金もなく自分たちだけで『千人』を演奏するというのは、こ れはすごいことです。それならうちもやろうというオケもあるかもし れない。たとえば私は以前、日本国中北から南まで『第九』の合唱 指導に呼ばれましたが、今はそれぞれの地域に経験を持った指 導者が生まれています。『千人』についてもレベルが上がってそう いうふうになればと思います。 

(中略)

O:本公演の主催のNPO法人おんがくの共同作業場は設立15周 年となりました。

G:『千人』に限らずひとつ音楽作品を演奏するために、多くの関係 者がそれぞれがおかれた状況の中でそれぞれの想いで責任を 果たしていく共同作業には、単に一緒にやることよりももっと強い ものが働いていると思います。そのためのプラットホームを提供す るのがNPO法人おんがくの共同作業場の仕事で、15年かけて定 着してきたのだと思います。『千人』という大曲をプロデュースした という経験を今後に生かしていきたいと思いますし、これがこのよ うな活動の先駆となって広まってほしいと思います。1960 年代の 冷戦の最中に危機が叫ばれたとき、偉大なチェリストであるカザル スが国連で「全世界でベートーヴェンの第九を歌おう」と提言した ように、この作品も21世紀の新たな危機の中で平和を願う人々が 力を合わせて演奏できる作品だと思います。世界中の都市で演奏 できるようになることを願っています。 

(2016年のプログラムノートよりインタビュー記事を抜粋)

注:文中の「本公演」は2016年の公演を指します。

2016年5月5日(木祝) 13:30ロビー開場 14:30開演 東京芸術劇場コンサートホール

指揮:ジェフリー・リンク
管弦楽:ブルーメン・フィルハーモニー
独唱:国光ともこ、朴瑛実、見角悠代、増田弥生、清水華澄、望月哲也、大井哲也、青山貴
合唱:新星合唱団、東京オラトリオ研究会、東京ライエンコーア、小平コーラス・アカデミー