■『ロッチュさんとの対話』 郡司 博  1997年発行

「ハンス=ヨアヒム・ロッチュ」はバッハから二世紀半後の聖トーマス教会、第30代カントール(音楽監督)として世界的に活躍した音楽家です。日本に於いてもこのバッハ直系の偉大なマエストロと郡司先生率いる合唱団は、いくつもの忘れがたい数々の演奏を残しています。2013年84歳でお亡くなりになったのち、今もなお多くの合唱団員から愛されるロッチュ先生。

『ロッチュさんとの対話』と題し1997年に合唱団から発行された小冊子があります。

〈バッハ、ドイツ統一、そして音楽する楽しさ〉対話ーーH.J.ロッチュ*郡司 博

〈日本における四週間〉H.J.ロッチュ

〈ロッチュさんの後ろ姿〉郡司 博


その中から「ロッチュさんの後ろ姿」より抜粋

(前略)

このとき、ザルツブルクで四カ月ぶりで再会したロッチュさんに話を移しましょう。私がロッチュさんの名前を知ったのはそれほど昔ではなく、15、6年前のことだと思います。日本にトーマス教会合唱団が来てバッハを演奏するというので聴きに行き、そこで指揮をしていたのがロッチュさんでした。そのときの印象は、子供たちを規律で縛る(こいうのをよく見かけますが)というのではなく、少年たちがとても「子供子供して」いて、それぞれの個性が見えてくる、そしてその個性が集まってひとつの作品をつくっているというものでした。つまり、ロッチュさんは、強烈なカリスマ性を発しているわけでもなく、指揮棒もそんなに引力があるわけでもないのですが、しかし子供たちひとりひとりの個性、もっといえば可能性を、彼自身のからだのやわらかさと、笑顔と、自然で無駄のないバトンテクニックをもって引き出している。完成度の点からいえば、リリングやガーディナーとくらべれば物足りないかもしれないけれども、子供たちひとりひとりの可能性と自発性が滲み出ていて、そのときの満席の聴衆を魅きつけて離さなかったことを記憶しています。

数年後には本拠地ライプチヒのトーマス教会で《ヨハネ受難曲》を聴く機会に恵まれ、演奏が終わってから指揮者のところへ行き、自分の《ヨハネ》の総譜にサインをしてもらいました。じつはそのことは忘れていて、今年4月の《ヨハネ》の練習で総譜を開いてみたときに、「あれっ、これロッチュのサインだ」と、それも練習が相当進んだあとで気がついたというわけです。

彼は東西ドイツ統合という歴史的な大転換のなかで、いわば詰め腹を切らされて、ドイツではなかなか演奏の機会が与えられなくなり(いまでもその状態は続いているそうです)、現在はザルツブルクのモーツァルテウムで教師として活躍しながら、ザルツブルクでは指揮もしていますけれども、国際的な活動はできない状況にあります。そんなようすから、合唱指揮者の運命というようなこともつくづく感じました。

合唱指揮者というのは、合唱団から離れると、もうたんなる個人でしかない。オーケストラの指揮者の場合はひとりであちこち回っていけますが、合唱指揮者の場合は、どんなに国際的に活動している合唱団とつながった指揮者であっても、そこから離れてしまうと個人ではなかなか仕事に恵まれない。ロッチュさんのように、あれだけ大活躍した人でもそうなんだなということを、自分の問題としても、ひとつの重い現実として考えたわけです。合唱団と合唱指揮者というのはまさしく表裏一体のもので、逆に言えば、合唱指揮者が死んだらその合唱団もつぶれてしまう、というのがアマチュア合唱団の宿命なのかもしれない、とも思いました。

ロッチュさんには前からなんとなく気持ちがひかれていたのですが、それはなぜか。社会主義体制の国のなかで、教会音楽、宗教音楽をやる、そしてそれが国家から保証されるだけでなくひじょうに優遇されたなかで、バッハ直系の音楽家として手腕をふるい、大活躍をしてきた。ところが東西ドイツ統合という大転換にあたって、政治は彼を見捨てた。私も若いころから政治というものに興味がないわけでなく20年くらい前に社会主義国を旅行したときに、ああ、これはおかしい、と直感した。文献で読む社会主義というものと、実際に見た社会主義というものの落差があまりにも大きく、また人々の顔がことに暗いことに愕然とし、これは一体どういうことなのかと考えてしまいました。

社会主義国の多くの音楽家たちが、東西統合という転換期を巧みにくぐり抜けたなかで、ロッチュさんがそれをくぐり抜けられなかったのはなぜだったのだろうか。寄宿舎生活をしていたトーマス教会合唱団の少年たちにとって、いつも身近にいて、音楽の場だけでなく生活全般にわたってかかわり、個人的な相談にも親身に応じてくれるロッチュさんは、まさに父親のような存在だったと思います。その子供たちのもとを去るというのは、ロッチュさんにとっては身を切られるようなつらさであったろう。ーーー東独時代に彼がおかれていた政治的立場が、のちに彼の音楽の場を奪うことになってしまったわけですが、しかし彼は長年にわたって子供たちとつくりあげてきた音楽的・精神的成果を信じ、それを宝物としていたに違いない。そして政治的に争うことによって、その宝物を汚したくないという気持ちから、自分は詰め腹を切らされることで、逆に子供たちとの関係を保っていくという、精神的に子供たちを裏切らない生き方を選択したのだと思いました。音楽家としても、政治的にも、派手で恰好いい生き方じゃないかもしれないけれど、そこには、音楽を愛し、ともに演奏する人々への愛情を大切にする彼の音楽家としての重要な資質があるように思えます。ひとりひとりの自発性と可能性を信じ、その究極の高みへと導こうとする愛情、人間の本質を信じて疑わないおおらかさ…… そうした彼の真髄を、私は彼のタクトを振る後ろ姿からもじゅうぶんに読み取ることができました。

そうした彼のなかから生まれてくるバッハ、滲み出てくる音楽というものと、私たちがいま失いかけているものとを、どこかで重ねあわせて見ているのは私だけだろうか。いま音楽をやる人間、とくにアマチュア合唱という分野の人々が、知名度の高さイコール芸術の高さ、と短絡的に考えたり、また、たんなる表面的な美しさを追う演奏を求めるのではなく、人間の生きていくことに息を吹きかけるような演奏がどうしたらできるのかを考えていくべきではないだろうか。演奏のなかに、積み重なった人間の情といったものを感じていく。歴史のなかで被害を受けたロッチュさんのなかから出てくる音楽に、そういうものがあるように思います。

いま、こういうことを語ると時代錯誤と思われたり、「そういう事実はなかった」とする議論すらあるけれども、私は、私たちが生きているこの20世紀に日本が中国や朝鮮、東南アジアで犯したこと、ドイツがユダヤ人450万人を強制収容所で殺したことなど、なによりも重い人間の命が大量に奪われた大事件、そしてそれらが人々の心のなかに刻んだものを忘れては、21世紀の芸術・文化はないと思います。こういった人類全体の経験を、音楽の場で多くの人々が、どう音楽として表現し、音楽のなかにちゃんと残していけるか。音楽家たちがスター・システムに乗ってどんどん派手になっていく(そのことによってファン層が拡大し、音楽が普及していくというすばらしい側面はありますが)現状にあって、それと同時に、20世紀におこった様々な非人道的な行為とその被害、それをバッハをやるときでもなにをやるときでも、きちんと演奏のなかに残していくこと、現在を生きている私たちがそれを演奏することによって、二度とそうしたことをおこさないようにすることが大事なのではないでしょうか。

そしてそれを根本のところで支えるのが、人が人を思う心、相手の人間性を大切にする心でしょう。バッハをいろんな指揮者とやってきたなかで、ロッチュさんの後ろ姿を見たときに、私がその背中から感じたもの、それは、人間の優しさとか思いというものをけっして失ってはならない、ということです。

このことは、十数年前にロッチュさんが子供たちと東京にきて演奏している姿と全く同じでした。その当時は東ドイツ社会のなかでもっとも優遇され、もっとも権威のある指揮者であったけれども、彼がだれよりももっていたその優しさ、人間の可能性への信頼といったものを、それから15年たち、立場がまったく変わっても、いまだに失っていないという、芸術家としての偉大さーーそれを、私たち合唱をやる人間が引き継いでいく必要があるのではないかと思います。そういうことに少しでも役立てばと考えて、今回こういう小冊子をつくることにしたのです。

※この小冊子は1997年に作成されたものです

編集:郡司 博

通訳・翻訳:竹内 晴代

発行:新星日響合唱団 東京オラトリオ研究会